文化・遊び・「すごろく」
 
                                                    X. Jie  YANG
                                                  カナダ・カルガリー
 
 
※この文章には、三つの画像ファイルと二つのプログラムを添付資料としてもつ。ま
た、「オフ・ライン」にてこれを読む方には、これとは別に「xyang01.exe」という
パッケージをダウンロードして、「ハイパー文章」を楽しんでもらいたい。
 
 
・・日本の遊びとしてのすごろく・・
 
  いわゆる「日本の遊び」――昔から伝わり、日本的な情調をもち、しかも外国には
あまりその例をみないもの――と言えば、どんなものが浮んでくるのだろうか。おそ
らく皆それぞれに答えを用意しているかもしれないが、「すごろく(双六)」は、間
違いもなくその中の一つとして数えられると思われる。
  ほとんどの人にとって、双六は新年の遊びの一つとして意識されている。このシン
プルにして、たわいのない遊びは、どこかに愛嬌があって、郷愁を誘う。お正月にな
って、遠くから親戚や家族の人々が集まり、子供たちを中心に賑やかに騒ぎ、これに
夢中になる一時は、もうだんだん少なくなったとはいえ、皆は心の風景としてどこか
に大事に持っていることであろう。
  そして、今日の人々にとって、これはおそらくただの「知識」に属するものになる
が、現在の双六とは、実は新らしいルールに変身したものであり、これに対して、昔
にはもう一つの「すごろく」が存在していたのだった。名前こそ同じだが、形もしき
たりもまったく違い、しかもそちらのほうは何倍も長い歴史をもつ。この古いほうの
双六は、無邪気な遊びではなくて、いつも勝負にかかわり、これにとり組む人は、そ
れこそ真剣そのものだった。
  この古いほうの双六についてだが、江戸時代には、このような狂歌が読まれた。
 
        すごろくを
        打つの山辺の
        うつつにも
        夢にも一つ
        かたぬなりけり    『徳和歌後萬載集』(四方赤良編)
 
  これは、「双陸にまけぬれば」と題して、加保茶元成という狂歌師が読んだ歌であ
る。現在の知識をもって一読するば、その「狂」の風格はどこに託されているのかよ
く分らないだろう。じつは、当時の人々にとって、このような歌がよく知られていた。
 
        駿河なる
        宇津の山辺の
        うつつにも
        夢にも人に
        あはぬなりけり    『伊勢物語』
 
  これは、旅に身をおく者としての寂しい気持ちを読むりっぱな歌であり、『新古今
和歌集』にまで集録された。したがって、すこしでも知識のある人ならこの歌はすら
すらと口に出てきたにちがいない。そこで、元成は、「駿河なる」を、音の近い「す
ごろくを」にし、あとは「会はぬ」を「勝たぬ」に置き換えただけだった。人口に膾
炙の旅の名歌は、その言葉もリズムも保ちながら、双六の勝負に夢中になる無謀な男
のものに変身してしまい、なんともいえない滑稽なものになった。元成の手法にはた
だただ脱帽するにほかはない。
  このようにして、勝負、そしてそれが高じて、賭博といった非生産的なもの、あえ
ていえば無邪気よりも消極的で、悪につながるものとして、双六は昔から伝えられて
きた。いうまでもなく、長い歴史の中には、すごろくへ注ぐ視線はいつも冷たいもの
でもなかった。元成の時代からさかのぼることやく百年、松尾芭蕉(1644ー1694)に
も、双六を読み込む一句があった。
 
        すごろくの
        目をのぞくまで
        暮かかり    『ひさご・花見の巻』
 
  これは、連句の一座の中の一句だった。この句が読まれるまでには、「熊野」、
「頑くな関守」、「酒」を飲みすぎる「はげ」男、と句題が変り、それを芭蕉は双六
に興じる暮れの風景をもって、軽妙に応じた。後に、雪中庵蓼太が、この一句を評し
て、「是翁の粉骨なり」(『付合小鏡』)と絶賛した。「粉骨」とは、いうまでなく
「力の限り骨折ること。心身のつづく限り尽力すること。」(日本国語大辞典)なの
である。同じく双六ではあるが、ここには、いかにも文化の香りが漂ってくる。
  長い日本の文化の中において、双六という遊びは、いったいどのような役割を演じ
つづけてきたのだろうか、そして、それが今日のわたしたちにとってどのようなヒン
トを示してくれるのだろうか。
以下この文章はこれを考えてみたい。
 
 
・・民衆が夢中になるもの・・
 
  日本の文献に双六が登場したのは、びっくりするほど早かった。それは実は『日本
書紀』から記録されたのである。ただ残念なことに、双六はただの遊びではなく、国
家政府が禁止するものとして記されたのである。
 
      持統三年(689年)十二月丙辰、禁断雙六。
 
  双六は、懲罰の対象としてこのように歴史に現われた。一つの遊びとして、その不
名誉な一面は、そもそもそれの出現とともなって始まった。文化の一つとして双六を
眺めようとするわれわれにとっては、ここにそれの足跡を確認できた喜びとともに、
それの歴史のなかに認められた役について、まずは最初の驚きをもって接することに
なった。
  歴史を読みなおすと、双六に関する禁令は、じつに数々のものになる。その筆頭に
数えるのは、なによりも『令義解(捕亡)』である。平安王朝の政治運営にとっても
っとも大事な文献であるこの書物は、双六を代表とする賭博の行為に対して、長い段
落を割いてこと細かく罰則を決めた。
 
      凡博戯賭財、在席所有之物、及句合、出九、得物。為人糺告、
      其物悉賞糺人。即輸物人及出九句合、容止主人能自首者、亦
      依賞例、官司捉獲者、減半賞之、餘没官。唯賭得財者、自首
      不在賞限、其物悉没官。
 
  この令には、「義解」という注釈付きだから、その内容の理解には大部可能になっ
た。まず引用しておかなければならないのは、「博戯賭財」という一語についてであ
る。
 
      謂博戯者、雙六樗蒲之属、即雖未決勝負、唯賭財者、皆定之。
 
  双六はここの禁止の対象の代表格のものとしてあげられた。それから、「義解」と
読みあわせて、令のつぎの内容も興味をひくものとして注目したい。賭博行為を発覚
すれば、それにかかる賭けものすべてが没収されるということはいうまでもないが、
それらは、「在席所有之物」という言葉をもって表現されていながらも、「義解」に
よれば、ここでは必ずしも物理的にその席に置かれたものしか指さないものではなか
った。むしろ、牛や馬のような個人の財産で、その席の話に上ったものならすべて含
まれるものであった。それから、このような厳罰は、政府の官吏だけによってはどう
しても目の届かないことが出てこようものだから、普通の人々の検挙が望まれる。そ
れは、検挙する人々に奨励を出すことによって実行され、その奨励の内容にはびっく
りするものがあった。すなわち官吏の手を患わないで、民間人によって捕まった場合
は、その賭けもののすべてが検挙する人の所有になるのだ。この条例はどこまで正確
に実行されたかは今日のところ不明であるが、もしそれが条例通りになったとすれば、
これだけで一つの富を起した人々が現われたとしても不思議はないものだった。
  双六という遊びを一つの文化の現象として眺める場合、以上のような法令は、ほか
でもなく、当時の社会民衆がいかにこの遊びに夢中し、情熱を燃やしていたかを伝え
てくれるものである。双六は、おそらく遊びの度を遠に越え、正常な社会の生産や生
活に支障をもたらすまでになったからこそ、政府からこのような懲罰の条令が生れた
のだろう。今日にある双六の様子からは、以上のような情況を想定することはどうし
てもできないものである。逆に、このような条令を読み返して、今日のわたしたちは
はじめて、かつてあった双六の存在に、一歩近づけた。
 
 
・・長谷雄の冒険・・
 
  双六に興じる実例は、歴史記録や古典の文学作品などから膨大な数のものを拾いあ
げることができる。ここでは、なかの一例、人間が鬼と双六の勝負をする話をとりあ
げたい。この話は、「長谷雄草紙」というタイトルの絵巻によって伝えられ、しかも
その内容は孤立したものではなく、たとえば『和漢朗詠集』といった一流の文学作品
に注釈を加えるという作業を通じて、中世の文人の間では広く流伝されたことは、近
年になってすこしずつ明らかになってきた。
  話の主人公は、紀長谷雄という、平安朝の代表的な文人であった。そのかれは、あ
る日の夕方、見知らぬ男子に呼び止められ、双六に誘われるまま、羅生門の上まで案
内された。そこで、真剣勝負のゲームがくり広げられた。絵巻の詞書はそれをつぎの
ように伝えた。
 
      すなはちはむ・てうととりむかへて、
      「かけ物にはなにをかし侍へき?」
      「われめけたてまつりなは、君の御心に見めもすかたも心ば
      へも、たらぬところなくおほさむさまならむ女をたてまつる
      へし。君まけ給なばいかに?」といへは、
      「我は身にもちともちたらむたからをさながらたてまつるへ
      し」といへは、
      「しかるへし」とて、
      うちける程に、中納言たたかちにかちけれは、おとこしはし
      こそよのつねの人のすかたにてありけれ。まくるにしたかひ
      て、さいをかき、心をくたきける程に、もとのすかたあらは
      れて、おそろしけなる鬼のかたちになりにけり。おそろしと
      はおもひけれとも、
      「さもあれ、かちたにしなは、かれはねすみにてこそあらめ」
      と、ねむしてうちける程に、つゐに中納言かちはてにけり。
 
  ここの文字による記録を、絵、それも現代風に編集しなおしたものにあわせて読ん
でみると、およそこのようなものになる。(プログラム「manga.exe」)
  いかがなものだったろうか。ここの「絵巻漫画」という試みについて一つだけ付け
加えたい。「漫画風」というのは、たしかに現代的なものであり、とりわけ今日の生
活のリズムに合致するものである。しかし、遠い中世の世にもどったとしても、ここ
に喚起された絵巻の絵を見る目は、本質的には大きな差があるはずはなかった。あえ
ていえば、ここの絵は、もともとこのような観賞のために創作されたものだったとま
でいいきれる。
  話の内容については、とくべつに注釈を加える必要もなかろうが、前節の内容とあ
わせて読めばいっそうよく分る。『令義解』は、天長十年(833年)に成立し、その
翌年に実行したものである。そして、ここで話の主人公になった長谷雄の、実際の生
年は会昌五年(845年)で、令の実施が一番期待される時期の出来事になる。鬼との
対局は、けっきょく後世の人々の、半分空想上の話にすぎないにせよ、長谷雄という
人は、双六による懲罰のことをよく知っていて行動に付したのであって、すくなくと
もそうしたはずだった。鬼との対面は、話のなかのかれに一つの冒険を強いたわけだ
が、それまでには、かれはじつはすでに懲罰の目を逃れようと、国家の法律に挑戦す
るというもう一つの危険にみちた冒険を踏み込んだのだった。
  それから、ここの羅生門という密室の空間も妙に納得がいく。もともと大衆の前で
くり広げられてもよさそうな遊びであったが、一身の財産にかかわるような賭け事で
あり、しかも政府の禁令によれば、発見者が出たら、その人には、かかる財産の半分
ないし全部が渡されることになっているだけに、公の目に触れるわけにはいかないの
だ。やはり羅生門というのは一番理想的な場所だった。
  鬼が登場してきた双六の話は、ここでは、まるで別の世界、異次元の存在への通路
を暗示してくれた。双六には、それにつながる要素、あるいは一種の文化的な魔力と
でも言おうか、をたしかにもっていたのかもしれない。
 
 
・・「双六」の天地・・
 
  双六の道具はいたって簡単だ。すくなくとも現在のわれわれの目にはそのように映
る。台の形になる盤、30の齣(馬とも言う)、そして二つの采と一個の筒、これがそ
のすべてだった。ふたたび絵巻に登場したこれらの品々を眺めてみよう。(ban.jpg)
  しかしながら、このような単純なものでありながらも、昔の人々の目には、けっし
てこれだけのものではなく、むしろ無限に広がる天地に見立てられたのである。ここ
に『■(左は土、右は蓋)嚢抄』という本に記述されたことを引いておく。
 
      局、四季表して厚四寸、八方に表して、広八寸、十二月に当
      て長さ一尺二寸にして、竪に十二目盛り、天地人の三才に像
      りて、横に三段を分ち、陰陽の二儀に擬へて、内外の二陣を
      成し、一月を司どりて、黒白卅の石あり、日月に擬して二の
      骰あり、須弥の三十三天に表し、筒の竹を三寸三分に切る。
      是日月の行度を隠す故也。
 
  この文章は、双六によせて、実に複雑な理論を、まるで数字遊びのような感じで盛
り込んだ。分りやすくするため、つぎの表に纏めかえしてみる。
 
        局:
        四季――厚さは四寸
        八方――広さは八寸
        十二月――長さは一尺二寸、竪は十二目
        天地人の三才――横に三段
        陰陽の二儀――内外の二陣
        石:
        一か月――黒白卅の石
        采/筒:
        日、月――二の骰
        須弥の三十三天――筒は三寸三分(日月を隠す)
 
  「数字遊び」とは、もちろん今日のわたしたちの感覚からいうものである。同じよ
うな認識をとても持ちえない今日の常識をもってこれに接すれば、だれもが閉口する
ことだろう。「四季」「八方」「三才」「二儀」と、内容が止まるところを知らずに
膨れあがり、はては、「須弥天」をもって「日月」を隠す段になると、その発想の膨
大かつ奇妙なことに、ついに感動するぐらいだった。わずかな道具を対象にして、こ
こには間違いなく宇宙そのものをまるごと持ち込んだ。双六の天地は、そのまま人間
が現に住む世界、そして、人間の感覚の外にあり、認識としてしか存在しない宇宙観
と重なったのだった。
  ところで、ここではぜひ見逃がしてはならないことがある。ここに引用する『■嚢
抄』という書物は、けっしてだれかの好事者が一人でひねくりまわして内容をこしら
え、もって一人で愉しむようなものではなかった。それとはほど遠く、むしろその時
代の文化の水準を代表した、りっきとした百科事典であり、一流の教科書であった。
この事実を心に留めてここの記述を読み返せば、おそらくまったく違う認識が得られ
よう。すなわち、こと双六に関していえば、昔の民衆はたしかにこのような意識を共
有し、あるいはそうすべきだと教わったのだった。今日のわたしたちがこれに賛同で
きるかどうかとは関係なく、双六に注がれた視線は、歴史上かつてまったく異質なも
のがあったのだ。ここでは、一つの遊びよりも、それによって映し出された民衆の意
識のほうは、もっと注目すべきなのである。
 
 
・・ハイカラーな外来もの・・
 
  双六は日本人が作りあげたものではなく、舶来の遊びだった。そのルーツは遙か遠
いところに求めなければならない。古代メソポタミアの遺跡からは、粘土板に書かれ
たバックギャモンの遊びが発掘され、これこそ最古の双六だとの説もあるが、定かで
はない。はっきりしたのは、日本にとって、双六の直接な伝来の地は中国だったこと
である。
  中国のほうの文献を調べると、「雙陸」という名で記されたこと遊びがあった。
「陸」はすなわち「六」だから、双六のことであることは間違いはない。現代中国語
では「shuang1liu4」と発音するから、これは昔の発音からは大部離れたにせよ、
「すごろく」に近いことが分る。「すごろく」とは「雙陸」という中国の言葉の読み
方をそのまま日本語として取り入れた造語であった。同時に、中国語としてこの同じ
遊びを指すと思われる言葉はほかにはさらに多数あった。「選采(xuan3cai3)」
「博塞(bo2sai4)」「博陸(bo2lu4)」「六甲(liu4jia3)」「長行(chang2xing2)」
などがあげられる。これらの言葉の読み方は、およそ「すごろく」にはほど遠いもの
だったが、日本の文献に登場する場合、一概に「すごろく」として読まれていたよう
だった。
  双六自体は中国から伝来されたものだから、それが中国においていかにして楽まれ
たかは、もちろん関心の寄せられるものだった。『平治物語』には、楊貴妃をまつわ
る話としてつぎの話を記した。
 
      昔は重三、重四と申候けるを、唐の玄宗皇帝と楊貴妃と双六
      をあそばされ候けるに、皇帝重三の目が御用にて、朕が思ひ
      の如くに下たらば、五位になすべしとて、あそばされけるに、
      重三の目をり候き。楊貴妃の重四の御用にて、我思のごとく
      をりたらば、共に五位になすべしとて、あそばされければ、
      重四の目をり候き。共に五位になせとてなされ候む。五位の
      しるしには何をかすべき、五位は赤衣をきればとて、重三重
      四のめに朱をさされてより以来、朱三朱四とこそ呼候へ。
 
  ここに、双六の遊びを介在して現われたのは、賭け事ではなく、むしろ皇帝の即興
的な一言を頼りに、身分の低い女官が赤衣を身に纏う五位の官位を手にした宮廷の裏
話である。玄宗皇帝の寵愛を一身にあつめ、それを良いことに栄華と官禄をほしいま
まに貪った楊貴妃という、中世における共通した認識を表現した典型的な一話である。
すこし説明を加えると、ここに出てくる重三、重四、それに朱三、朱四はいずれも双
六のための用語であり、二個の采がともに三あるいは四を出したことを言う。重一
(でっち)、重二、重五(でっく)、重六などの用語もあったが、ここにあるような
いきさつにより、「朱三」「朱四」が普通になった。
  外来ものとして双六は、それが日本的なものに変身を遂げつつある過程において、
さらにそれが外来のものだったことをつねに強調することも、一方では忘れていなか
った。同じ遊びを、民衆的なものにして、多くの人々が手軽に遊べるようになるとと
もに、それがつねに王朝的な神秘な色合いを持ち、外来文化の情調を帯びるものとし
て、そのハイカラーをみせびらかすものだった。双六に夢中する人々の価値観の一端
をここに見る思いがした。
 
 
・・大きな転換・・
 
  ここまで述べてきた双六の遊びは、江戸も元禄(1688年ー1704年)ごろまでを境に
して、あとは廃れる一途を辿った。そして、これに代るものとして、今日にいう双六
に近い形の遊びが登場した。便宜に、古いそれを「盤双六」と呼び、新しいのを「紙
双六」といって区別する。
  双六の変身の具体的な過程は不明なままである。見るようによっては、両者の違い
はあまりにも大きい。駒は参加者一人一個に、采は一つに減り、そして双六の盤は単
純な目のかわりに、複雑でカラフルな絵や文章が書き込まれることになった。おそら
く、采によって進行が決められるという要素以外は、この二つの遊びの接点はほとん
ど見だせない。そのため、この二つはもともと違うものだったという意見さえある。
  しかしながら、同じ双六をもって呼ばれている以上は、両者に関連がないとするの
はやはり早計になる。紙双六は、あきらかにそれまでの盤双六の存在を意識し、それ
を継承したのだろう。ただし、ここにいう「継承」とは、やや特別なありかたを取る、
それはおそらくなにかの理由によって古いものを淘汰したのではなく、むしろそれの
人気に「便乗」し、女性や子供など、文化のレベルの低い人々を対象にして制作して、
いつの間にか人気を博して、古いものをすっかり取り換えた結果になったのであろう。
 
  ここには、時代を異にする紙双六の実例を三例ほど紹介する。
  最初の例は、浄土真宗の僧侶によって作成された「浄土雙六(judo.jpg)」である。
ここには、地獄や浄土などの観念が表現された。三途の川を渡り、閻魔の審判を受け、
地獄道の数々を廻り、そして、ついには成仏し、浄土に到達するといった一つ一つの
場景は、分りやすい絵になり、文字による説明まで添えられ、遊ぶ人々への教化に役
立った。地獄・浄土の教えについての学習、復習は、このような遊びの間に繰り返さ
れるのだった。これを仕掛けた人の着想の妙に感心せざるをえない。
  つぎの例は明治時代のものになる。「少女遊戯雙六(meiji.jpg)」と題して、理
想とする少女たちの遊びの数々が取り入れてある。今日にも遊びとして取り扱うよう
な「手毬」「トランプ」が見える一方、遊びよりも、勉強や習い事になる「お稽古」
「写生」「唱歌」もあり、そして、当時としてはハイカラーだと思われる「テニス」
「クロッケ」「海水浴」などの項目もあった。いかにも時代の色合いを反映して微笑
ましい。
  最後の一例は現代のものである。凡人社の刊行による「すごろくゲーム・にほんご
探険(nhng.jpg)」である。ここの内容を一々触れることもないと思われるが、日本
の伝統にじかに用いながら日本語の教育を行なうということは、勉強者に歓迎される
ことはいうまでもなかろう。
  前に指摘したように、双六という遊びには、単純なものを他のなにかに「見立てる」
という伝統をもつ。それが大事な基盤になって、ここの紙双六の成立につながったの
であろう。ただし、ここではそういった外在的なものとの繋がりをただ象徴的なもの
に留まるのではなく、絵や文字によってつとめてはっきりと記された。その作業は丁
寧に行われ、しかも教育というりっぱな目的も加わり、新らしい遊びとしての紙双六
は、大衆に心よく受けいれられ、ついに社会的に認められる結果になったのであろう。
 
 
・・「双六」、そしてコンピューターゲーム・・
 
  ここにいたって、一つの文化現象としての双六についてはほぼ述べおわった。とこ
ろで、この文章の内容の一つは、文化の伝統がもつ今日に対するヒントという内容も
約束していたので、これからやや角度の違うことを考えてみる。
 
  どんな文化現象についてもそうであるように、その捉え方はいくらでも違う可能性
がある。ここでは、以上のような形で双六をまとめてみれば、それはなぜか、俄然当
世風のあるものにかなり似てきてしまった。もちろんあの一世を風靡するコンピュー
ターゲームのことを指したかった。ことわるまでもなく、ここでいう「似ている」と
いうのは、あくまでも文化的な属性のことを意味する。
  古来、懲罰の対象とされてきた双六に対して、コンピューターゲームはさすがにそ
こまでみじめな待遇を受けていない。しかし、これはあくまでも、現在の政府=政治
的な権力は、むかしとはだいぶ性格の異なるものになっただけのことで、学校教育の
場、あるいは子供教育に有志な団体や個人による指導などの立場により、コンピュー
ターゲームへの非難はけっして少なくはない。そして、いうまでもなく、そういう動
きにふさわしく、ゲームに夢中し、ついに限度を越えた、あるいは越えるのではない
かと心配させるだけの熱狂ぶりは現にそこにあった。
  コンピューターゲームにも、ある種のハイカラーが付いている。それは外来のもの、
あるいは在来のものといったような、世の中が閉していたころのような産物ではなく、
ハイテクという形で、人間の知恵を代表する花型的な存在であるかのような虚象をも
って現われてくる。ニューテックだからどうしても慎しく受けいれなければという発
想は、現代人の意識のどこかに持たれている。
  そして、今日のコンピューターゲームの一番得意な分野は、いうまでもなく「バー
チャル・リアルティ」なのだ。「バーチャル」というキーワードを生みだすことによ
って、コンピューターゲームは、まるでいままで存在だにしなかった代物かのように
ふるまっている。しかし事実はけっしてそのようなものではない。バーチャルという
名で呼ばれたかどうかは別として、小説も映画も、りっぱな「バーチャル」なものな
のだ。そして、ゲームのバーチャルは、双六にある「見立て」の手法とは、本質的に
共通しているのだ。そこに別の世界を見出すということは、あくまでも見る者の主体
の問題であり、そこにある存在に属するものではなかった。「ゲーセンもの」などが
すでにかなり「現実」に近づき、「見立て」の世界とは関係ないと主張する人も出て
こようが、そのような人々には、すこしでも前のゲームを見てもらい、いまはそっけ
ないものとしか映らないものにかつて夢中になったあの感動を思いだしてほしい。同
時に、ゲームをやらない、やろうとしない人々の覚めた声のあることを忘れないでほ
しい。「バーチャル」は、いまもむかしも遊びを支えるものとして、ゲームの本質に
かかわるものなのだ。
  このように比較してみると、どうしてもゲームを消極的なものとして捉えようとす
る一種の偏りに陥ってしまいそうだが、もちろんそのつもりはなく、ゲームには遊び
ということの健全な性格をもち、人々の生活には必要なものである。ここでとくにゲ
ームと教育との関連にも触れなければならない。今日のコンピューターゲームは、も
うすでに教育のために役立ち、ゲームのありかたの大きな一部を担うことになった。
双六の場合とよく似て、ここにある教育も、なにも娯楽ものを排除したり、取り除こ
うとして現われたのではなく、むしろ良い具合に遊びの原理を活用し、それを借りた、
あるいは便乗したと言えよう。
  今日のわれわれをとりこにしたコンピューターゲームは、後世の人々の目にはどの
ようにして映るかは分らないが、昔の双六のような結末を迎えることはないことだろ
う。すくなくとも、われわれの世代では、そういう見通しはなさそうだ。そして、そ
のためにでも、わたしたちはそれぞれが有意義と思う方向にむいて、自分なりの努力
を続けることであろう。
 
  ここでは、ささやか「おまけ」として、わたしが作った小さなゲームを添える。そ
の名も「sugoroku(プログラムsugoroku.exe)」なのだ。このソフトの一番の特徴は、
だれでも手軽にオリジナルゲームをつくってほかの人に遊んでもらうことにある。遊
び、あるいは教育熱心な人なら、ぜひ一度試してください!
 
 

              プロフィール     氏名: X. Jie YANG   年齢: 38才   性別: 男   国籍: カナダ   所属: University of Calgary   e-mailアドレス: xyang@acs.ucalgary.ca  
              入賞コメント    一つの文化現象への記憶は、個人の経験によるところが大きい。私にとって「すご ろく」とは、お正月の遊びよりも、読書の知識から、平安や中世の人々を無我夢中に させた賭博だった。そこで、浄土信仰や少女教養の内容を取り入れたもう一つのすご ろくに接したとき、新鮮な響きと知的な刺激を覚えた。そして、今流行のコンピュー ター・ゲームのありかたと重ねて眺めてみる思いを押さえることができなかった。  この度、拙ない論に優秀賞を授けてくださったことに、心から感謝を申し上げたい。