home J.B.L.NEWS 97/2月号 _3月号_ _4月号_モンテカルロ、そしてダラスを目指す皆さんへ by 1986年、1996年全日本選手権者 皆上 強志

* 世界3大ゲームのトーナメント事情

 私の夢。それは、バックギャモン・プレイヤなら誰もが憧れる、世界大会で優勝することです。
 バックギャモンは、世界の3大ゲームの一つに数えられるだけあって、週末になると必ずといっていいほど、世界中のどこかでトーナメントが開かれています。
 その中でも、毎年7月に開催されるモンテカルロのワールドチャンピオンシップと、隔年で8月に開催されるダラスのワールドカップは、10年以上の歴史があり、参加人数も、400〜500人の規模に達していることから、最もステータスの高い世界大会といえます。
 それだけに、モンテカルロかダラスで優勝することは、世界中のバックギャモン・プレイヤの夢となっているのです。

* 魅惑のダブリング・キューブ

 私が、初めて海外のトーナメントを経験したのは、10年前の1987年のことでした。1986年の第16回全日本選手権で優勝し、1987年にラスベガスの世界大会に派遣される予定だったのですが、この大会が中止されてしまったため、アメリカ合衆国ネバダ州リノの大会に派遣されたのです。
 武運つたなく3回戦で敗退しましたが、初めての海外一人旅のために始めた英会話は、その後も継続し、英検1級等の取得というような形で今も私の中で生き続けています。とにかく強くなりたくて、バックギャモンの洋書に親しまざるを得なかったため、英語を読むことはできました。大会派遣のおかげで、英会話に対しても、あまり抵抗を感じなくなったことは、生涯の財産に思えます。
 ジョー・シルベスタをはじめとする、アメリカのトッププレイヤとのお話や観戦を通して、当時の日本との差が相当あることを痛感した結果、帰国後しばらくは、バックギャモンから遠ざかっていました。仕事中心の生活に戻り、余暇も資格取得等に専念していました。
 バックギャモンから遠ざかっていた甲斐があって(?)、ドイツ他を約3週間にわたり研修訪問するチャンスが3年前の1994年にやってきました。
  渡航直前に、ドイツ訪問中に第1回ジャーマン・オープンが開かれることを白石氏から耳打ちされてしまった私は、優勝前年の1985年に書いた自分の研究ノートをパスポートと一緒に持参し、ドイツの新幹線ICEのゆったりとした座席の中で読み返していました。
 そして、乗り放題のユーレイルパスをフル活用して、週末をトーナメント会場で過ごした私は、偶然、8人によるジャックポット・トーナメントで賞金を獲得し、宿泊費と大会参加費を回収していました。
 私は、改めてこのゲームのおもしろさ、特にダブリング・キューブの虜になってしまいました。1985年の研究とは、何を隠そう、トーナメントでのダブリング・キューブの使い方だったのです。
 バックギャモンに特有のダブリング・キューブとは、賭点を2倍にしようと相手に提案するためのさいころのことで、各面に2、4、8、16、32、64と、2の倍数が刻印されています。提案された相手は、元の点数のまま、負けを認めてゲームを降りるか、ダブリング・キューブを受け取って、2倍の賭点でゲームを続けるかの選択をしなけばなりません。キューブを受け取ることには、大きな意味があって、次に賭点を2倍にする権利を占有していることを示し ています。
 他のゲームにも、このルールは応用できます。そして、そのゲームをスリリングでスピーディなものにするでしょう。
 私は、プロ野球が勝ち点制と同時にこのルールを採用した時、長嶋監督がダブリング・キューブをどのように使っていくのかを密かに想像し、楽しんでいます。

* トーナメントの醍醐味

 日本でも、バックギャモントーナメントを楽しむことができます。
 JBLホームページをご覧になっておわかりのことと思いますが、 全日本大会は、例年、世界大会への派遣を優勝賞品として、週末の数日を利用して開催されています。
 バックギャモントーナメントは、ポイントマッチ制といって、先に特定の点数に達した者が勝ちというシステムが採用されています。
 例えば、11ポイントマッチでしたら、対戦者2人がゲームを続け、獲得した点数を加算し、先に11ポイントに達した方が勝ちとなるわけです。
 15点先取のバレーボールに似ています。しかし、バックギャモンのポイントマッチは、3通りの勝ち方とダブリング・キューブによって、より過激でスリリングな展開となります。なぜなら、1ゲームで獲得可能な点数が、1、2、3、4、6、8、12というように、1・2・3と2の倍数(1、2、4、8、16、32…)を掛けた点数となるので、大量の点差を、あっという間に逆転ということもあり得るからです。
 デュースがないこともバレーボールよりエキサイティングで気に入ることでしょう。バックギャモンには、引き分けがないので、ダブルマッチポイントといって、両者ともにサドンデスに追い込まれた状況で戦うことも珍しくありません。
 あなたも、スリリングなトーナメントに参加してみませんか。観戦するだけでも、思わず引き込まれてしまいますよ。

* モンテカルロ

 謎の白石氏の作戦が効を奏し、再びバックギャモンの虜になってしまった私は、1995年、早めの夏休みをとり、モンテカルロに向かいます。
 この由緒ある世界大会は、1週間にわたって開催されます。
 期間の長さに驚かれるかもしれません。その理由は、チャンピオンシップ本選は、最低でも17ポイントマッチ以上で戦われるためです。
 バックギャモンは、さいころを使ったゲームなので、基本的な定石を理解してしまえば、世界チャンピオンクラスの相手であっても、1ポイントマッチの1発勝負なら4割程度は勝てます。5ポイントマッチを 100セット戦って、6割の勝率ならば、実力差は、相当なものと考えなけばなりません。
 トーナメント主催者側は、強い人に勝ってもらう苦労があるのです。1ラウンドは、5ポイント毎に1時間程度を想定しますので、17ポイントマッチでも、休憩も含めると最大4時間程度見込むことになります。
 したがって、1日の進行は、2ラウンドがせいぜいということになります。
 チャンピオンシップは、例年 200人程度ですので、8回戦必要になります。決勝と表彰式で最終日が丸1日つぶれることを考えますと、最低5日になります。これに、ミニトーナメントとレセプションだけが開かれる初日と、ディナーパーティが開かれる予備日が入って1週間となっているのです。
 日本の大会との大きな違いは、期間ばかりではありません。
 日本では、会場の都合で、深夜に公式の試合を設定していません。対照的に、モンテカルロでは、深夜12時を過ぎても、まだまだ熱い戦いが繰り広げられています。
  また、自分のレベルに合わせて楽しめるように、3部門制をとっています。初心者部門でも優勝すれば数10万円、中級部門では100万円以上の賞金が出ます。3部門合わせて400〜500人が一同に会しますので、大変な規模のイベントです。
 さらに、負けてしまった人が手持ちぶさたにならないように、コンソレーション(慰め)のトーナメントが3回に分けて開かれます。コンソレーションの優勝でも、本選のセミファイナリスト(ベスト4)より賞金が多いので、最後まで、皆必死です。
  10年前のトーナメントで力の差を痛感していた私は、1994年のドイツの大会と1995年のモンテカルロでは、中級部門に出場し、旅費回収のチャンスを狙っていたのでした。残念ながら、モンテカルロでは、中級優勝でも全日本選手権優勝より価値が高いことを思い知らされる事になりましたが。
 美しい夏の地中海を臨むモンテカルロで、あなたも、ゆったりと、バックギャモンに浸ってみませんか。

* 羽生名人とモンテカルロ

 世界中のバックギャモン・トーナメントで共通すること。それは、友好的な雰囲気でしょう。
 バックギャモン・プレイヤ同士は、家族であるという人もいます。国際大会であれば、数十人の規模でも、たいていパーティが催されるのが慣例となっているゲームは、他にないそうです。モンテカルロに訪れる日本選手団の人数が、20人近くになってきた理由のひとつも、モンテカルロが一番リラックスした雰囲気だからと思います。
 モンテカルロの1週間を日本選手団の一員として過ごしていると、札幌では普段どうしても疎遠になってしまうJBLの活動状況も耳に入ってきます。
 特に私の気を引いたのは、1995年8月に羽生名人の防衛記念大会があることでした。優勝賞品も豪華で、香港でのアジア・オープンへの派遣とのことでした。

* 因果応報

 北海道で生まれ育った私には、 露時と真夏の本州は、できれば避けて通りたいものの代表です。
 しかし、 羽生名人にお会いしたいという気持ちも手伝って、 バックギャモンの楽しさに再び開眼してしまった私は、 暑い真夏の東京に向かいます。
 私の他に、 札幌から来た人がいました。 緒戦の相手は、 翌年の1996年に王位となる山本氏だったのです。
 何と、 山本氏は、大学時代お世話になった出身講座の博士課程に在籍していました。10年前、 しばしば大学に出かけて普及活動をしていた効果が続いていたのです。
 お話を聞くと、ゲームボードが講座にあり、先輩に優勝した人がいるということで興味を持つようになったそうで、普段の練習はインタネットで積んでいるとのこと。1993年に、白石氏から、インタネットでバックギャモンができるようになったことを聞いていた私は、実物を見に久々に出身講座を訪れることを約束します。
 大会の優勝のためには、残念ながら、もう1つ勝ち星が足りませんでした。しかし、上位から賞品が選べたおかげで、バックギャモンのパソコンソフトでは一番良いという噂のジェリフィッシュを持ち帰ることができました。

* パソコンとインタネット

 山本氏にインタネットによる対戦の様子を見せてもらい、さらにジェリフィッシュで練習をしてみて気づいたことは、パソコンの性格が変わりつつあるということでした。
 ペンティアムの登場でパソコンの性能が上がっただけではなく、インタネットによって、世界への窓がパソコンから開かれつつあったのです。
 私は、インタネットへの接続が簡単だという噂のウィンドウズ95を心待ちにしていました。

* 捲土重来

 羽生名人防衛記念大会で入手したジェリフィッシュには、シミュレーションの機能がありました。 この機能を利用すれば、ほとんどの局面で、次の一手の正解がわかることに私は着目しました。
 そして、全日本大会を意識して、特に応用範囲が広い、序盤の2手目のシミュレーションを重点的に始めました。シミュレーションの結果を解読すると、それまで、推測に過ぎなかったものが確信へと進化します。また、それまで誤解していたことがあることにも気づきます。
 1995年の全日本大会には、オープン部門が新設されたのですが、全日本選手権の伝統を引き継いで、優勝すればモンテカルロに行けるチャンピオンシップに出場しました。決勝戦までは、シミュレーションを行った甲斐があり、スコア状況に応じて、2点勝ち以上を狙う手の打ち方と、1点だけ取りに行く手の使い分けを、ほとんど迷うことなくできました。
 ところが、決勝戦では、相手の小さな細かいミスを見分けられることが逆に災いし、消極的なプレーをしてしまいました。ダブルをかけて4点勝ちを狙うべきゲームでも、結果的に1点しか取ることができず、大差で負かされてしまいました。
 10年前に優勝した状況と比較して、何よりも実戦不足が敗因と感じた私は、捲土重来を心に誓い、冬のボーナスの使い方を決心します。
 50万円あれば、ジェリフィッシュによるシミュレーションを高速で実行できるウィンドウズ95マシンを買い、ISDNとインタネットサービスプロバイダとの契約をして、毎日実戦を積むことができる環境が手に入る時代になっていたのです。

* 飛んでイスタンブール

 インタネットで対戦するたびに思うこと。それは、世界大会の楽しさです。
 1995年、第25回全日本選手権決勝戦の敗北で悟った実戦不足を克服するために、私は、インタネットで毎日のように練習を積みはじめました。同時に、私は、世界大会に再度挑戦してみようと考え始めました。
 ホテルから追加懸賞金5万ドルが提供される事で知られるイスタンブールの大会は、閑散期の1月に開かれるだけに、出発間近でも格安航空券の予約が簡単に取れます。1996年の年明け早々、このことに気づいた私は、イスタンブールへと旅立ちます。

* 生兵法は怪我のもと

 この大会は、私の海外遠征歴の中で、もっとも反省材料の多い大会となってしまいました。
 1回戦、大量リードを奪ってあと2点となった私は、近くの席に、ビル・ロバティとジョー・シルベスタがいることが気になりはじめます。2人とも勝ち上がったらしいので、自分も2回戦を勝ち上がれば、どうやらこの2人の勝者と試合ができるらしいなどと考えているうちに、負かされていました。  リードしたときにありがちな消極的なミスプレイをしてしまったことや、目の前のポジションに集中できず、取らぬ狸の皮算用を始めてしまっていたことが直接の敗因です。
 間接的には、コンディション作りのまずさが敗因でした。慌てて強行スケジュールを立てたため、イスタンブールの会場ホテル到着は、本戦開始のわずか18時間前でした。ホテルからの追加懸賞金は、中級部門にはほとんど配分されないことを知って、当日、不足分のドルを手配したことも、あまり良い心がけだったとは思えません。本戦開始2時間前のレセプションでは、あまりお酒を飲まなかったつもりだったのですが、疲れのため、ふだんよりずっと効いていたのかもしれません。
 優勝者は、私がよく知っているドイツのペータ・ハイトミュラでした。彼とは、ドイツの大会で、3時間に及ぶ15ポイントマッチを戦い、14−14のスコアを経由する激闘の後、友達になってしまったのです。
 彼におめでとうを言ったとき、突然ある思いが、巡ってきました。1回戦でミスをしていなければ、彼と決勝戦を戦っていたのかもしれないと。

* 風が吹けば桶屋が儲かる

 戦果を挙げるためには、大事な試合でミスをしないように研鑚を積むしかありません。このゲームは、最後に致命的なミスをした方が負けるのです。
 大事な試合でミスをしないようにするためには、常に納得のいくプレイをするように心がけなければなりません。常に全力を出す訓練をしていないと、肝心なときに力が出しきれなくなってしまいます。
 この心がけがきっかけとなり、ダラスに行く成り行きが私に巡ってきます。
 1996年王位戦予選。
 負けが込んで消化試合となった対田端戦。彼は1995年のモンテカルロでビル・ロバティをもう少しで負かしそうになったことで有名です。相手にとって不足はありません。
 私は、心がけのとおり、全力でプレイし、運良く勝利しました。すると、どうでしょう。王位戦予選通過の最後の枠は、田端氏と私の大学の後輩山本氏のプレーオフで決着する展開になっていたのです。
 その後、王位戦優勝の賞金を元手にダラスのワールドカップに行こうという山本氏の立派な心がけは、私をおおいに揺さ振ったのでした。

* ダラスの熱い火

 1996年夏、NTT派遣の研修生となっていた私にとっては、お盆休みの時期に開催されるダラスのワールドカップは、この夏唯一の参加可能な世界大会ではありました。2回分の資金が必要となるだけに、私は、躊躇していました。エントリーフィーだけで、約4,000$もかかるのです。
 参加してみて、私は、山本氏の選択眼に敬服しました。ダラスのワールドカップは、最高の質の大会であることは間違いないと思います。1997年の全日本選手権とオープンのダブル優勝者が出れば、ダラスの大会は、最高の賞になるとも思います。
 ワールドカップの本戦は、すべてのラウンドが11ポイントマッチ5番勝負で戦われます。チェスクロックを使っても、1ラウンドに丸1日かかってしまうため、出場者を64人に制限する必要があり、エントリーフィーが高額になってしまうのです。別の見方をすれば、モンテカルロの2回戦勝ち上がり相当の枠を買って、納得のいくまで試合をしようというプレイヤだけが集まる大会なのです。
 くじ運良く、1回戦は不戦勝。そして、2回戦でマイク・センキヴィクスと試合ができました。早めのダブルを打って、4点勝ちを狙う展開に多く恵まれ、運良く緒戦をものにしました。
 しかし、3回戦、コンソレーションと敗れ、自動的にオープン部門へ出場することになりました。
 ある意味では、ワールドカップには、コンソレーションが4回設定されているのです。したがって、ダラスでの1週間は、勝率が半分程度あれば、毎日平均7時間以上はプレイできるようにスケジュールが組まれているのです。
 試合の合間にワールドカップ本戦のチェスクロックで時間切れとなった試合を観戦できたり、オープン部門での対戦を通じて、アメリカのプレイヤの層を厚さを実感できたのは、大きな収穫なのかもしれません。
 しかし、残念ながら、トーナメントでは、まとめて勝たなければ実績が残せません。

* 本土決戦

 不思議なことに、1996年の全日本選手権は、山本氏と決勝戦を戦うことになりました。
 運良く、逆転して優勝することができました。もちろん、うれしいのですが、内心は、複雑です。
 現段階では、私はまだ世界大会への出場で実績を残していないので、1996年全日本選手権のための練習以上の位置づけはできないように思えるからです。
 優勝したおかげで増えたチャンスを、何とか生かしたいものです。

* バックギャモンを超えて

 私には、夢があります。それは、世界大会で実績を残し、英語でバックギャモンの本を出版してみたいということです。
 この夢の次のステップとして、退職後、予備校で英語の教師をしたいと思っています。2年周期でトーナメント巡りと予備校の教師をして人生の終盤を送れたら、最高でしょう。更に、実績を積んでホテルと航空会社のスポンサーがつけば、札幌で2年周期の世界大会を開催して、北海道の活性化に一肌脱げるように思えます。
 まだ、世界大会での実績がまったくないので、取らぬ狸の皮算用なのですが、自分の本当の目標は、このように、バックギャモンを超えたところにあるようにも思えます。
 皆さんも、バックギャモンの向こうに、夢が見えてきませんか。
                  

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